セッション2 苫野一徳さん (個人的なメモと感想です)
一番根本の土台→「そもそも教育とは何か」
「なんのための教育か」
方法に関心があるだけでは
方法のパッチワークになる。
心情の話になるとゴールが見えない。
哲学というのはテーブルの上にみんなの考えを置いて吟味をするゲーム
「哲学者」は現場を知らない?
「現場」にはいろいろな現場がある。
いろいろな「現場」の知見を持ち寄って協力すれば良い。
教育哲学の基盤がなくなっていく。
教育の目的は「自由」の相互承認の感度を高めること
教育はすべての子どもたちが「自由」
《生きたいように生きられる》になるための力を保証する。
何をやっても自由だ→これでは戦いになる。
私たちが自由に生きるためには他者の自由を認められないといけない。
→自由の相互承認の感度を育むこと。
なぜ戦争は終わらないか
「人間だけが自由に生きたいと思うからだ」
自然状態を加工・否定して人間になっている。
本質がわかれば戦争を止める方法はある。
自由の相互承認をどのようにしたらよいか
→「法の発明」すべての人は対等に自由
素晴らしい発明
自由の相互承認の感度を育み自由になるための力を保証する。
法と教育ともう一つ大切なのは福祉
この三つを合わせて自由とその相互承認を現実のものにする。
現代において自由に生きるための教育は
それはどうすればはぐくめるのか
自由の相互承認はどうしたら高められるか
学び続ける学ぶ力が・・必要
グローバル社会・・・
グローバルに「勝ち抜く」人材を育てるのは公教育にそぐわない。
多様性を相互承認して解決する時代、
学びの個別化→近代公教育では難しかった。
ブレンデッドラーニングへ
みんなで一人の先生の話を聞くということに限界
一方で
一斉アクティブラーニングという矛盾
システムが限界を迎えている。
「先生の決めたアクティブさ」を発揮させないといけない?
「先生が思う通りのアクティブさ」を発揮させないといけなくなっている?
本来はアクティブはその子にあった学び方のはず
子どもたち自身が探求しないと
教師は探求支援のプロとしてサポートガイドしていく役割が期待される。
発見したい欲求を全部学校は止めているジョンデューイ
学習探求者・・・学びは自分で探求
そもそも学びは探求
問いに応じて学ばなければいけないことがたくさん出てくる。
自分の探求のために学んでいるから知識が消えない。
「学びとは」
→問いがあって学ぶ力がつく探求をベースにして
学びのサポート探求欲望を支援していくのが教師
自由とその相互承認のために
感想
教育の目的は「自由の相互承認の感度をあげるため」という点
ぶれていないなぁ。
どうしても
方法論に目が行きがちな教育改革だが
私たちはどこに向かっているのか
どこに向かうべきなのか
苫野さんはいつもそこをしっかり指し示してくれている。